料理人と料理研究家、その決定的な差


料理人は素材を美味しくすることに心を砕く
料理研究家は料理の時間と手間の節約を目指す

料理人は、美味しいものを作るための手間暇は惜しまないね。
一方、料理研究家は、どこが節約できるかに腐心するもんだ。
何かの下処理を電子レンジでできるなら、迷わずそうするさ。
だけど、料理人は違う。
電子レンジがベストなら電子レンジを使う柔軟さはあるけど、
それよりも優れた処理の方法があるならそっちを選ぶよね。
それがどんなに手間暇のかかることであっても、だよ。
電子レンジでホワイトソースを作ってみると、それがよく分かる。
料理人はソース・ベシャメルって言うんだけど、あのソースは
電子レンジで作ると一っつも美味しくないんだよねえ。
バターに粉に牛乳という黄金の三角形だよ。
適当に混ぜて適当に調理したって、美味しそうな感じがしない?
それが、レンジ調理になるとどうしてああも不味いんだろうなあ。
もうね、全体が「ただの糊」になっちゃうんだよ。
ところが、鍋でちゃんと作ると黄金の三角形が俄然輝き出すよね。
旨いものを足し算した旨さが、くっきりと浮かび上がるんだよ。
たださ、ベシャメルは難しいのよ。
ダマにしない、焦がさない、粉っ気を残さない、そこら辺がね。
優れたレシピがあっても、材料投入のタイミングを間違えたらアウト!
加熱時間を間違えたらアウト!混ぜ方が下手なだけでもアウト!
スリーアウトでとっととチェンジ!ってことになっちゃうのよ。
それが電子レンジなら、レシピを守りさえすれば失敗は皆無だもん。
だったらさあ、家庭ではレンチンを選択するのが賢い主婦だろうよ。
時間的にも経済的にも、まったく無駄が出ないんだからね。
それで「そこそこ旨くて、それらしい」のなら、全く問題ないもんな。

 家庭の料理に完璧を求めることになど、そもそも意味がない。

料理人は金儲けのために、料理研究家や家庭の調理担当は健康のために。
立場が違うんだから目的も違って当然、というか、そうでなければね。
で、目的が違うんだから、様々な過程や手間のかけ方も違ってくる。
料理ってのは、そういうことなんだよ。

次回は、料理研究家の怠慢について。
2018 / 02 / 19 ( Mon ) 20:42:25 | 日記 | TrackBack(0) | Comment(0) | トップ↑
料理屋から学ぶもの


真っ先に挙げておくべきは、手洗いね。
トイレではなく、手を洗う設備のことなんだけどね。
家庭で料理をするときってのは、流しで手を洗ったりしないか?
料理屋では、流しとは別に手洗いを設けることが義務付けられている。
でも、流しで手を洗おうとすれば、それは可能だよね。
それでも、料理人は絶対にそれをしない。
流しで入念に手を洗って、それから調理にかかるんだ。
マクドナルドなんか、こういうとこ厳しいよ。
これは家庭でも見習ってもらいたいと、切に願う。
あとね、包丁やまな板を「神経質かっ!」ってぐらい拭くこと。
その布巾はもちろんまな板専用のものに決まってるんだけど、
布巾そのものも、しょっちゅう洗ってるんだよ。
包丁を洗うときはまず刃を洗うのが当たり前なんだけど、
その流れで柄も洗うというのが料理人のクセになっている。
言わなくても分かるだろうけど、衛生に気を遣うんだよね。
料理屋と家庭の差は、決して素材や味付けじゃないんだ。
決定的に違うのは衛生観念、この場でそう断言しておこう。

家庭の料理は、「不味くなければいい」のよ。
だけど、料理屋の料理は「旨くなければいけない」のさ。
何故って、そんなこたあ言うまでもないだろ。
店まで足を運んでもらって、挙句の果てに金を貰おうってんだからね。
それでもいちばん大事なのは、「美味しいこと」ではない。
何にもまして大切なのは、「まず安全であること」なんだよ。
素材選び、保存、下拵え、調理、全てがそれで貫かれていないとさ。
家庭で食中毒になっても、ゴメンで終わりだろ。
料理屋が食中毒を出したら、料理屋が終わりだ。
料理人もサービスのスタッフもクビ、おまんまの食い上げね。
下手すりゃ、人殺しにもなりかねない。
それが怖いから衛生に気を遣うんじゃなくて、
ダメなものはダメだから当たり前のことをしてるんだよ。

次は、料理人と料理研究家の差の話。


2018 / 02 / 18 ( Sun ) 20:01:51 | 日記 | TrackBack(0) | Comment(0) | トップ↑
料理屋料理と家庭料理


ごくごく大雑把に言い表してしまうと、こんなことになる。

 料理屋の料理は金を取るための料理
 家庭の料理は健康を維持するための料理

料理屋の料理は、とにかく見た目を綺麗にするわね。
今で言うインスタ映えとかいう下らない言葉が、よく似合う。
例えば、料理人はダイコンの皮をぶ厚く剥くだろ。
皮の下の繊維が残ると、煮えにくいし口に残るから…とね。
これね、たしかにその通りなんだ。
でも、じゃあ、ぶ厚く剥いた皮はどうするのかって話。
客には出せないんだから、賄いに回して使うしかないよね。
もちろん客からは、皮コミで値段を取らないと儲けが出ない。
かと言ってそれを廃棄してしまったら、詐欺に近くなる。
そこで、賄いで使うという窮余の一策を取ることになるわけ。
これ、家庭だったらどうなのよ。
ダイコンのいいところも、剥いた皮も、食う人間は同一じゃん。
それなら、過度に神経質になるこたあないじゃないか。
家庭なら、おでんのダイコンが少しぐらい固くったっていいんだよ。
ただし、剥いた皮を食べるための知識や技術は必要だよね。
食える皮を捨ててしまうのは、料理屋でも家庭でも論外だ。
料理屋がそれをやったら、金を払う客に対する不忠だろう。
家庭で同じことをしたら、素材に対する冒涜ということになるね。
料理の本質的な技術ってのは、見た目の綺麗さじゃないんだ。
食べる人と食材にどれだけ気を遣えるか、この一点だけなんだよ。

次は、料理屋から学ぶべきことの話。


2018 / 02 / 16 ( Fri ) 10:06:00 | 日記 | TrackBack(0) | Comment(0) | トップ↑
料理と言葉、どっちも文化


関東では「出汁を取る」と言って、関西では「お出汁を引く」と言うんだ。
この動詞の違いがどこから来ているのか、今になってもまだ分からない。
一つだけ分かるのは、昆布と鰹節の特性の違いだね。
昆布は、じっくり時間をかけないといい出汁を取ることができない。
対して鰹節は、それこそあっという間に香りのいい出汁が取れる。
それで、昆布を重用する関西では「引く」というイメージができる。
鰹節をぐずぐず加熱すると不味くなるから、関東ではパッと「取る」。
と考察してはみても、しょせん自分で考えたことに過ぎないけどね。
英語だったらどう表現するか調べたら、makeみたいだね。
たしかにtakeではなさそうだけど、drawなら間違っちゃない気がする。
どうでもいいか。

俺がよく言うことの一つに、唐辛子問題があるな。
東京でも「シチミ」っていう人が多いんだけど、東京は「ナナイロ」。
江戸っ子なら、「ナナイロトンガラシ」と言うんだよ。
最低でも「ナナイロトウガラシ」で、決して「シチミ」とは言わない。
これも、京都料理至上主義の具体的な例と言っていいだろうな。
関西では酒肴を「アテ」と言うけど、関東では「ツマミ」と決まっている。
こんなところにも「関西気取り」みたいな空気が感じられて、イヤだな。
こっちで言う「揚げ玉」を、関西では「天かす」って言うね。
ここでも、かぶれているかどうかがバレるよ。

揚げ玉のついでに、蕎麦やうどんの「きつね」と「たぬき」。
「きつね」は、こっちでは甘辛く煮た油揚げを乗せた蕎麦うどん。
でも、関西では具は同じだけど、うどん限定なんだよね。
「たぬき」は、関東では揚げ玉を乗せた蕎麦うどんだよね。
これが京都だと、刻んだ油揚げと青ネギをあんかけにした蕎麦うどん。
大阪では、油揚げの甘辛煮を乗せた蕎麦だけを指す。
うどん台なら、それは先述の「きつね」だからね。
では関西では揚げ玉の乗った蕎麦うどんをどのように呼ぶかというと、
「ハイカラ」とか「花」と呼び習わしているんだな。
また関西には「きざみ」というのがあって、これは味付けなしの
刻んだだけの油揚げを乗せた蕎麦うどんのことだね。
東京には、こういう食べ方そのものがないんだわ。

東京の人間で、揚げ玉の乗った蕎麦うどんを食べたいときに
「ハイカラひとつ下さい」なんて言うヤツがあるかい?
「出汁」か「お出汁」か、「取る」のか「引く」のかも、
蕎麦やうどんの呼び分けとまったく同じってことなんだよ。

次は料理屋料理と家庭料理の差について。
2018 / 02 / 15 ( Thu ) 11:39:18 | 日記 | TrackBack(0) | Comment(0) | トップ↑
京都料理と言葉遣い


京都では昆布と言わずにお昆布という料理人が多いんだよね。
鰹節をおカツオなんて言う人は皆無だけど、これは言い難いからかな。
昆布をお昆布という人は、出汁もお出汁という傾向が強いね。
食材や出汁を大切にする気持ちは大切だと思うんだけど、
これを関東の人間がやるといきなり嫌味になるから面白いもんだ。
東京にはお昆布・お出汁という料理人はただの一人もいなくて、
もしそういう言葉遣いをする人がいるならそれは間違いなく京都かぶれ。
日本料理にはどこか京都至上主義みたいなものがあるのが不思議だ。
狭い日本とは言え、京都料理だって地方料理の一つに過ぎないんだよ。
江戸料理もそう、沖縄料理もそう、郷土料理は郷土料理でしかない。
土地土地の気候や産物によって、人間の生理に合わせるのが料理の本分。
自分が生活する地域の料理に、もっと誇りを持ってほしいと思うんだわ。
大阪料理の重鎮が言ってたよ、「京都の料理は、味が濃いですさかいね。」
我々東京の人間からすると京都料理は味が薄そうな気がする訳だけど、
その京都料理でさえ濃いと喝破してしまうのは結構痛快じゃない?
東京の料理にも、京都料理より味付けの薄い料理はあるしね。
要は、先に述べたように、必然性のある料理が大事だってことなんだ。

中国の四大料理を見てみたら、よくわかると思うんだ。
北京・上海・広東・四川、料理の特徴は風土気候と密接な関係にある。
日本の中華料理屋はどの地方の料理も混在してるけど、あれは冒涜だね。
現地では、みんな伝統的な料理だけを黙々と食べているものさ。

話を日本に戻すけど、水の質の違いはどうにもならないよね。
京都に「イノダ」というコーヒーの名店があるんだけど、そのコーヒーがね。
京都を旅するときには朝は堺町三条の本店に行くことが多いんだけど、
あのコーヒーを飲むと京都の一日が始まるぞ!っていう気になる。
あるとき、東京でもこのコーヒーが飲みたいと思ったんだよね。
それで豆を買って持ち帰り、こっちで淹れて飲んでみたことがあるんだ。
もうね、まるっきりダメ。
もちろん技術的な問題が大きいんだけど、水がまるで違うんだよね。
後になってから京都の人間に聞いたら、企画が無茶だって笑われたよ。
遠回りしたけど、水の差が出汁の差につながってるだろうってことね。
おそらく京都の水は、ことのほか昆布の出汁に向いているんだと思う。
対して関東圏の水は、鰹節の出汁に向いているんじゃないのかな。
科学的な検証をした訳ではないので確かなことは分からないけど、
文化の背景には科学などとは無縁だった人々の経験の蓄積があるものだ。
やみくもに他の文化をありがたがるのは、愚かな話だよね。

次も同じ流れの話を、もう少しだけ。


2018 / 02 / 13 ( Tue ) 10:16:16 | 日記 | TrackBack(0) | Comment(0) | トップ↑
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