怪しいタイトルは、最近気になっている言葉を三つ並べたものである。
① とても 今ではあとに続く言葉を強める意味で使われるのが普通になったが、 「とても」の本来の用法は現在のようなものとは少し違っている。。 「とても~ない」と、うしろに否定語あるいは否定的表現を伴うものだ。 「こんなに雪が積もったら、とても買い物には出られない。」 これが、「とても」本来の使い方なのだ。 だが最近の使い方は、英語のVERYの意味が圧倒的に多いようだ。 「ここから見る景色は、とても美しい。」 こういう表現は、誤用とは言わないまでも、「とても」の本義ではない。 手元の辞書では、上の用法が第一義で下の用法は第二義として書かれている。 ② すごい 漢字で書くと「凄い」、本来は「スサマジイ様子」を表す言葉だ。 手元の辞書では、第一の用法は「ぞっとするほど恐ろしい」となっている。 そのような状況が、はたして身の回りに転がっているだろうか。 ヘビ女が生きているヘビを食っているような、そんなところか。 どことなく、血の匂いと消えかかる命を連想させる言葉だ。 ところが、それと知りつつ、自分でもついつい使ってしまうのだ。 「今日はすごく嬉しい事があったから、ちょっとお祝いだ。」 「すごい」ことと「嬉しい」ことは、同時に成立するものだろうか。 冷静に考えればおかしい使い方なのだが、これを自分でもやらかしてしまう。 もっとひどいのは、次のような使い方だ。 「東京スカイツリー、すごい高い!」 さすがに私自身はこういう使い方はしないが、よくある誤用だ。 後続の形容詞を修飾するなら連用形でなければならないところだが、 「すごく」と連用形で用いるのではなく「すごい」と連体形で用いている。 だが、この誤用もすでに市民権を得ていて、誤用とは言えなくなってきている。 ③ 鳥肌が立つ 生理的な現象として「鳥肌が立つ」場合はもちろん構わないのだが、 誤用が目立つという認識を持っている言葉の一つがこれだ。 「コンソメの繊細な味に、鳥肌が立った。」 「感動する」というような意味合いで用いられることが多いようだが、違う。 鳥肌が立つ原因、本来は「感動」ではなく「恐怖」なのだ。 最近読んだ本に、この誤用を憂える人の談話があった。 「近頃の人は、本当にそういう経験をしたことがないから間違える。」 たしか、そんなようなことが書かれていたと思う。 そう語るこの人は、太平洋戦争時の特攻隊員の生き残りである。 死を覚悟で敵艦めがけて急降下していくときなどは、 鳥肌どころか操縦桿を握る手もガクガクと震えることだろう。 小便ぐらい漏らしても、なんの不思議もない状況ではないか。 コンソメごときでいちいち鳥肌を立てていては申し訳ない。 三つの言葉に共通するのは、「強め」の役割という性格だ。 「とても」と「すごい」は続く語を強めるために用いる。 「鳥肌が立つ」は感動の気持ちを強く表すために用いる。 してみれば、私が忌み嫌う「超~」と本質は何も変わらない。 先にも書いたが、情けないのは自分でも「すごい」を安易に使うことだ。 浅田真央のフリーの演技を「すごいとしか言いようがない。」と評するのは、 実は「すごい」以外の表現を探すことを放棄しているだけの横着かもしれない。 しおらしく、そんな反省もしておこう。 言葉は、「使った者勝ち」というきわめて柔軟な道具だ。 その性格上、時代とともに変化していくことは避けられない。 だからといって、言葉の本義を忘れてしまってはいかにも味気ない。 ほんの僅かな意識が、日常の言語生活を豊かにしてくれるはずなのだ。 ここ最近の目標は、安直な「すごい」を排除することである。 場面場面で「すごい」に取って代わる言葉を探すのは、思いのほか楽しい。 こういったエントリを起こすと、人から尋ねられることがある。 「あなたは、常日頃あんなことを考えて言葉を使うのか?」と。 そうした時の私の返事は、いつも決まっている。 「そうだよ。」 |
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