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○○料理、ただし「自称」-久々の長編


インド料理に目覚めてから、何度か教室に参加したことがある。
ある料理店のインド人店主の教室には二度参加したが、二度ともつまらなかった。
ナンやタンドリーチキンのレシピなどはネットで入手できる時代なのに、
自分のレシピがこの世で一番であるかのような自慢ぶりにうんざりした。
そのレシピで作ったナンはまるで旨くなく、ナンはレシピよりもタンドールが命と
気づいたことが収穫らしい収穫だったと今になっても感じる。
玉ねぎの切り方も自慢していたが、まな板を使わないのは横着にしか見えない。
文化の差と言ってしまえばそれまでのことではあるのだけれど。

日本人のレクチャーも受けたことがあるが、きわめて手の遅い人が多いのに驚く。
野菜のカットを見るだけでも、いわゆる「料理人」でないことがわかるほどだった。
包丁から始まってまな板や布巾や鍋の扱いに至るまで、どこもかしこも素人。
一番気になるのは衛生観念の欠如で、目を覆いたくなる光景もしばしばあった。
そしてたっぷりと時間をかけて出来上がった料理は凡庸そのもの、肩透かしもいいところだ。

私のインド料理観が一変したのは、ある小さな体験がきっかけになっている。
某インド料理店にいた時、コックの公休回しのために代打のコックが来た。
アリという名だったが、そのアリの作る料理に私はたいそう驚かされたのだ。

シュガーチーズクルチャ、真っ先に思い出すのがこれだ。
孤独のグルメでチーズクルチャが話題になっていたが、砂糖を足してあるのだ。
甘じょっぱいチーズクルチャが、呑兵衛の私をして「お代わり」と言わしめた。
ナンの生地とチーズと砂糖の配分、焼き加減と取り扱いの丁寧さ、
必要な条件が全てピタッと合致してそれは目を見張る一品になっていた。
アリが、ほぼ焼けたクルチャを立てて、車輪のようにゆっくり転がしている。
何をしているのか尋ねると、中身の溶けたチーズが均一になるようにしているという。
ある部分はゆっくり、ある部分は一瞬で、そうして一周ぐるりと回して皿に平らに置く。
なるほど、そうやって手をかけたクルチャは、どこからどう食べても均一の味なのだ。
しかも、何度作らせても同じ味に仕上げてしまうことには舌を巻いた。

賄いで、とんでもない料理を作ってよこしたことも忘れがたい。
その日キッチンにある材料だけでパパっと作った、見た目は野菜炒めの一皿。
完全なベジ仕立てで色彩だけは豊富といった見てくれだったのだが、
それを口に入れるやいなや複雑なスパイスが爆発を起こしたのである。
野菜の歯応えがいいのは、それぞれの加熱の長さを考えているからだ。
ニンジンにはコリッとした歯応えと土の香り、キャベツはサクッと噛み切れて甘く、
玉ねぎはまるでヘタれたところがないのにしっかりした味のベースになっている。
他にもいく種類かの野菜や青唐辛子などが入っていたがバランスも抜群。
辛い料理なのだが、飯とクチャクチャ混ぜて食べると一層威力を増した。
あまりの旨さに、一部を持ち帰ってカミさんに食べさせてみたものだった。
するとカミさんは、「ああ、こういう料理が本当のインド料理なんだろうね。」と言った。
アリはたまにしか来なかったが、来た時はいつもそういう口福に恵まれた。

日本に浸透している外国料理、中国・フランス・イタリア・韓国は動かざる四天王だ。
インド・タイ・スペイン・ロシア・トルコあたりになると、二番手グループという感がある。
カレーが普及しているのでインド料理はメジャーなようだが、まだまだ発展途上だ。
日本に移入されているインド料理は、上っ面だけのものが圧倒的に多い。
ナンとタンドリーチキンはその代表、今でこそ南インドの料理も注目されているが、
日常食としてのラッサムやサンバルなら私にだって作ることができる。
多種多様に見えるカレーも、相当数作れるようになった。
だが、アリが作ってみせたような野菜炒めは、絶対に作れないのだ。

だいぶ昔のことになるのだが、イタリア料理屋でこんな話があった。
「ペンネ・アラビアータ」に「ペンネのアラビア風」という注釈がついていたのだ。
今となっては信じられないような笑い話だが、当の店は大真面目だったという。
そして客も、「イタリアでもアラビア風ってあるんだね。」と喜んでいたとか…。

よその国の料理は、日本国内での浸透度が低いほど珍重される。
日本国民もろくな知識を持ちあわせていないのだから、○○料理だと言われれば、
ああ○○ではこういった料理を食べているのだろうなと勝手に思い込んでしまう。
素人同然の人間が料理を作って「これが○○料理ですよ!」と声を上げれば、
「ああそうか、これが○○料理というものなのだなぁ。」などと鵜呑みにする。
作る側と食べる側、双方にとっての悲劇とさえ思えるのだがどうだろう。
一番の被害者は、実態をたわめられてしまった『○○料理』だとは思うのだが。

インド人が料理するインド料理屋でも、利益優先の店は食べていて面白くない。
メニューには、日本人受けするものしか並んでいないからである。
これは、多くの中国料理屋にも通じることなので強調しておきたい。
一方で、日本人が料理するインド料理屋にも、インドの魂を感じさせる店はある。
自費で何度も渡印して、料理の上っ面でなく民族の本質を探る人たちの店だ。
インド料理を極めようと思ったらインド人になってしまうのが一番の近道、
彼らはおそらく真剣にそう考えていて、またそれを実践しようとしているのだ。

料理に対する下地があったのが幸いしたものか、いつの頃からか私は、
インチキな料理人を見分ける嗅覚を身につけたように感じている。
だが、人間の五感の中でもっとも弱いとされるのが、嗅覚なのである。
スパイスの香りにごまかされることなく、真贋を見極めたいと強く願う。
2014 / 09 / 23 ( Tue ) 16:49:49 | 日記 | TrackBack(0) | Comment(0) | トップ↑
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